築城年代は定かではないが天文年間(1532年〜1555年)に大内義隆によって築かれたと云われる。
天文12年(1543年)赤松晴政が浦上宗景・宇喜多興家を派遣して経山城を攻めたが、このときは将軍足利義晴から細川氏綱・三好長慶追伐の命が下り陣を引き払った。
元亀2年(1571年)尼子再興軍が備中へ押し寄せてくると、城将中島大炊助元行は小勢であったが守りを固め、九州遠征中の小早川隆景に後詰めを求めた。中島元行は尼子陣に忍び込んで火を放ち夜襲を掛けると、尼子勢は多くの兵を失い佐井田城へ退いた。( 日本城郭大系や現地の標柱に記されている説明では、元亀2年に攻め寄せた兵を尼子晴久としているが、永禄3年(1561年)に没しているのであり得ない。)
天正10年(1582年)羽柴秀吉が備中に侵攻し備中国高松城を取り囲むと、中島元行は副将として高松城に籠城した。やがて水攻めにより高松城は城主清水宗治の自刃により開城。経山城もそのまま廃城となった。
経山城は標高372.6mの経山山頂に築かれている。経山城は山頂一帯に逆l字型に曲輪を配しており、その周囲には石積が残っている。
北尾根に面して石積された土塁が取り巻き、内側は空堀状になる。外側一帯は犬走が巡り、南西側は南北に石塁が残って曲輪を区画する。南西側には虎口があり、形状がやや不明確ではあるが、虎口はコの字状の通路と内桝形のような踊り場的な空間が付いている。
鬼ノ城を目指すとわかりやすい。砂川公園から鬼ノ城へ通じる車道の途中に経山城への登山道入口がある。登山口付近は路側帯があるが、鬼ノ城の駐車場を利用するのが良いだろう。
最寄り駅(直線距離)