築城年代は定かではない。天正年間(1573年〜1592年)には毛利方の備中境目七城の一つであった。軍記物では乃美元信(乃美宗勝の弟または子)が在城したとされるが、研究者様のご指摘により乃美景興が在城していたようです。乃美景興は乃美茶臼山城を居城としていた小早川の庶流である。
宮路山城は足守陣屋の北背後に聳える標高166mの山に築かれている。
曲輪は山頂の尾根に沿って東西に長く続いており、曲輪iと曲輪iiの二ヶ所がそれぞれ一段小高くなっている。虎口ははっきりしないが、aの部分は食い違い虎口のような形状をしている。
宮路山城は山頂から伸びる大半の尾根を多重堀切で遮断し、一部は畝状竪堀群と組み合わせている。
まず目を引くのは南東尾根側で、三重堀切2と三重堀切6の間に畝状竪堀群5を設けている。この畝状竪堀群は50m程の長さがあり、西の三重堀切6から伸びた竪堀は遮断するように伸びるが、東の三重堀切2から伸びる竪堀はcの部分で屈折して畝状竪堀群の一つとなる構造である。畝状竪堀群の上部は曲輪から一段下がった帯曲輪bがあり、多段で攻撃できるようになっている。
北尾根に設けた三重堀切9の東側には畝状竪堀群8がある。
南西尾根はu字型の堀切と竪堀の組み合わせが、二重堀切12の竪堀と合わさって畝状竪堀群のようになっている。
全体的に堀切や竪堀の規模が大きく明瞭であるが、北側にある堀切7の2つの堀切は規模が小さいものである。
かつて山上に神社かお堂があったようで、その参道が西の鞍部から続いている。この鞍部にある切通には北と南の両方から道があるが、北はやや草深く、南は倒木などが多い。
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