築城年代は定かではない。 建武3年(1336年)の湊川合戦で楠木正成を敗死に追い込んだという大森彦七郎盛長の一族、大森次郎左衛門尉盛清によって築かれたと伝えられる。
天正年間(1573年〜1592年)には宇喜多氏の家臣信原(延原)土佐守が城主であったという。
鍛冶山城は足守川と日近川が合流する地点の東に聳える標高171mの山頂に築かれている。主郭の北側は無線中継施設があり城域は不明だが、主郭から南の曲輪群まで、直線にして南北300m以上に曲輪が連なる。
主郭は山頂にあり後世の改変がなされているので確実ではないが、現状では北端に櫓台があり、その上にはコンクリート製の井戸か水溜のようなものがある。櫓台の南東下に内桝形があり、そこから櫓台の東下を通って北下の堀切へ道が通じ、通路に面して櫓台に石積がある。 主郭は西側から南側に掛けて1m弱の基壇のような石積があり、南西隅がスロープ状になっている。西下から南側に掛けて腰曲輪となり、南の虎口は南西側がスロープ、南東側にも通路を確認することができる。
西側の側面は基壇部分とは異なるやや大きめの石積があり、角石らしきものも確認できる。反対の東側側面にも良好に石積が残る。西側は大きく下がった山腹に広い削平があり、そこから西斜面に無数に段が付いている。
主郭部から南に向かって削平は連なり、南尾根の先端付近になると階段状に削平地が続き、やがて南の曲輪群へ至る。段ごとに堀切が付いているようだが非常に浅いものが多い。南曲輪群は地形に沿って東へ折れるが、腰曲輪は西側に多く付いている。
城山の北東麓にある筒井坂集落側から無線中継施設まで車道が付いている。そのまま普通車で山上まで登ることができ、終点から主郭までは徒歩1分くらいである。
最寄り駅(直線距離)