立石城を参照。
立石城は粟井の城山一帯に築かれており、付近には高松の合戦で毛利方の城であった宮路山城や織田方の城であった鍛冶山城があり、この城も関連していた可能性がある。
立石城は城域が広く便宜状、立石城A、立石城B、立石城C、立石城Dのブロックに分けて紹介する。
立石城Bは立石城のなかでは立石城Cと縄張の概念が同じであるが、北側が土取で遺構が失われている。
主郭B1は堀切のある西から南にかけて土塁を設けている。B1から東の曲輪群Cに向かって段々に造成された曲輪が続いているが、それらに土塁は確認できない。
主郭から西の曲輪群A1に続く尾根には三重堀切2、南の曲輪群Dに続く尾根には二重堀切3、その間に竪堀を設けている。立石城全体での最高所は曲輪A1であるが、曲輪群Aから曲輪群Bに続く尾根に堀切がないことから、立石城全体の中心となるのは曲輪B1が妥当である。ただ、これは立石城全体が同一時期に普請された場合の話であって、曲輪群Bが曲輪群Aに選考して存在し、曲輪群Aをあとから構築した場合は曲輪群Aが中心と考えて問題ない。
曲輪群Bの東端はB3でその先にある堀切4は削り面の状況から土取破壊に見えるが、堀切であれば、曲輪B3に付属する堀切である。そのさきにある堀切5、堀切6は曲輪C1に付属するものと考える。