築城年代は定かではないが、陣屋が築かれたのは足守藩主五代木下利貞の頃と云われ、それ以前は木下氏は京に住んでいたという。
藩祖木下家定は豊臣秀吉の正室ねね(北政所)の実兄で、はやくより秀吉に仕え、関ヶ原合戦の時は播磨国姫路城二万五千石の領主であった。関ヶ原合戦では北政所の警護にあたって中立の立場であったため、戦後備中国加陽郡・上房郡二万五千石に所替えとなり、足守藩祖となった。
慶長13年(1608年)家定が没すると、長男勝俊と二男利房に遺領の相続が認められたが、徳川家康の意向に反して長男勝俊のみが相続したため、足守領二万五千石は没収となり浅野長晟に与えられた。
慶長18年(1613年)浅野長晟は実兄の和歌山藩主浅野幸長が嗣子なく没したため、和歌山藩の家督を継ぎ、足守領は天領となった。
元和元年(1615年)大坂の陣の功により木下利房が改めて足守藩二万五千石に再封され、以後木下氏が代々続いて明治に至る。
足守陣屋は足守小学校の北西側一帯に築かれている。足守川が大きくカーブする内側が足守の城下町で陣屋はその北端に位置する。
足守陣屋の遺構は外側を巡る堀とそれに面した石垣で、大手は南東に開き、北側が張り出して横矢が掛かるようになっている。敷地の北にある木下利玄の生家は、嘉永5年(1852年)に陣屋の建物に増築されたものである。
陣屋の北側には足守藩の庭園である近水園と吟風閣があり、足守小学校の南側には足守藩家老の屋敷や木下権之助屋敷の表門などが残っている。
国道429号線から県道271号線に入り、足守小学校を目指す。県道沿いに足守観光専用の無料駐車場がある。
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