築城年代は定かではない。武田氏時代に一条小山城があったと云われているが、現在の甲府城が築かれたのは武田氏が滅亡した後である。
武田氏が滅亡したあと、織田信長の武将川尻秀隆が入部したが、本能寺の変が起こると蜂起した甲斐国人一揆によって討たれてしまう。これにより空白となった武田氏の旧領を巡り徳川氏と北条氏が争った。この天正壬午の乱は徳川家康の優勢で決着し、甲斐には家康の家臣平岩親吉が入る。天正18年(1590年)徳川家康は関東へ移封され、甲斐には羽柴小吉秀勝が入ったが、翌19年には美濃国岐阜へ転封となり、代わって加藤光泰が入部する。この加藤光泰の時代に甲府城の築城が始まったと考えられている。
加藤光泰が文禄の役で没すると、文禄3年(1594年)嫡男貞泰は幼小を理由に美濃国黒野へ転封となり、浅野長政・幸長父子が入部した。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦の功により浅野氏は紀伊国和歌山へ転封、以降は徳川義直、徳川忠長、徳川綱重・綱豊など一族が城主を歴代する。宝永元年(1704年)柳沢吉保が甲府藩主となり、柳沢吉里と続いたが、享保9年(1724年)大和国郡山へ転封となった後は大名が置かれず、幕府直轄領として甲府勤番が置かれた。
甲府城は甲府駅の南にある比高20m程の山に築かれており、現在は舞鶴公園として整備されている。
本丸東端には巨大な天守台があり、その外側を二の丸や稲荷曲輪、鍛冶曲輪などが取り巻いている。かつては山梨県庁や甲府駅なども含めて城域であったが、現在は中心部のみが現存する。
明治以降荒廃していた甲府城も近年着々と整備がなされ、本丸南には鉄門、稲荷曲輪に稲荷櫓、内松陰門といったものが復元されている。また線路を挟んだ北側に山手渡櫓門と山手門が復元され枡形になっている。
山梨県庁の防災新館地下駐車場には出土した石垣が移設展示されている。
内松陰門(復元 城門)
鉄門(復元 櫓門)
稲荷櫓(復元 櫓)
山手渡櫓門(復元 櫓門)
山手御門(復元 城門)
稲荷曲輪門(復元 城門)
甲府駅のすぐ南、一般車両の駐車場はなく駅周辺の有料駐車場を利用する。
最寄り駅(直線距離)