築城年代は定かではない。
永正年間(1504年〜1521年)に武田信繩の異母弟油川彦八郎信忠が籠もり、武田氏の家督を巡って信繩と争った。
永正5年(1508年)武田信虎のときに油川氏が滅亡して信虎が甲斐を平定するが、永正12年(1515年)には大井信達が反乱を起こし、これに呼応した駿河の今川氏の軍勢が勝山城に入っている。
大永元年(1521年)今川氏の武将福島正成が一万五千の軍勢を率いて甲斐へ侵攻、勝山城へ移り布陣したが、信虎はこの軍勢を撃退した。
天正10年(1582年)天正壬午の乱では徳川家康の軍勢が右左口から侵攻して勝山城を占拠し、修築している。
勝山城は比高30m程の独立丘陵に築かれている。現在大半が果樹園となっており遺構の確認が難しい。
独立丘陵の麓を空堀が巡っていたようで、丘陵全体が城域である。南東側から登っていく農道がついており、これが最高所へ続く所が虎口であったという。周囲の果樹園を見ると土塁らしき地形も確認することはできるが、果樹園の部分以外は藪の中である。
南東から農道が付いている。車はどこかに駐めてくる必要がある。
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