永正16年(1519年)武田信虎によって築かれた。信虎の時代に石和から躑躅ヶ崎に館を移し、甲斐守護の館として政治の中心地となった。
武田氏は武田信玄の時代に甲斐・信濃を中心に勢力を拡げたが、武田勝頼の時代に織田信長・徳川家康連合軍と長篠で戦って大敗北を喫し、天正9年(1581年)に新府城を築いて居城を移したものの、天正10年(1582年)には織田信長の軍勢によって攻められ滅亡した。
武田氏が滅亡すると甲斐には信長の武将川尻秀隆が入部したが、本能寺の変が起こると蜂起した甲斐国人一揆によって討たれてしまう。空白となった旧武田領を巡り、徳川氏と北条氏が戦った(天正壬午の乱)。この戦いで甲斐は徳川家康の所領となり、平岩親吉が入った。しかし、徳川家康もまた関東へ移封となり、豊臣秀吉の家臣羽柴秀勝、加藤光泰、浅野長政と次々と領主が代わっていく。この間に甲府城が築かれ、政治の中心も躑躅ヶ崎から甲府城へと移り躑躅ヶ崎は廃城となった。
躑躅ヶ崎館は現在の武田神社を中心として築かれており、複郭の平城であった。現在の遺構は武田氏のあと、徳川、豊臣らによって改修されたものである。
主郭は武田神社のある所で中曲輪と東曲輪に分かれていたようである。北西隅には天守台があるようであるが、立ち入り禁止のため確認することはできない。
主郭の西にあるのが西曲輪で、南北両端に石垣のある内桝形の虎口がある。この辺りは段々整備されてきている。
主郭の東側に大手があり、かつては三日月堀をもつ馬出しであったが、石垣造りに改修されたようである。この大手側は史跡公園として整備され、土塁や濠などが復元されている。
武田神社境内周辺に参拝者用の無料駐車場がある。
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