永正17年(1520年)武田信虎によって築かれたと云われる。 信虎は永正16年(1519年)石和から躑躅ヶ崎館に居城を移し、翌年詰の城として要害山城を築いた。
大永元年(1521年)今川氏の部将福島正成が甲斐国に侵攻する。このとき信虎の正室大井の方は懐妊中で、躑躅ヶ崎館を離れ要害山城に籠った。この時生まれたのが武田晴信で後の信玄である。
天正3年(1575年)長篠合戦で大敗した武田勝頼は、翌年要害山城の修築を開始する。 しかし、天正9年(1580年)方針を転換して新たに新府城を築いた。
武田氏滅亡後も改修し維持されたが慶長5年(1600年)廃城となった。
要害山城は積翠寺の東背後に聳える標高780m程の要害山山頂に築かれている。
主郭は山頂にあり東西に長い曲輪で周囲に石塁を伴う土塁が巡っている。大手である西は麓から階段状に曲輪が連なっており、至る所に石積を伴う虎口が残る。北側にある帯曲輪には現在も水が溜まった井戸がある。
主郭の東背後の尾根は曲輪と堀切の連続になっており、一部の堀切は側面に石積を伴っている。東端部の曲輪は円形状に土塁を持つ小郭で堀切からの通路はこの曲輪側面を迂回するように付いている。
現在の登山道は一部本来の虎口を通らずに直線的に登るルートで設置されている。また階段状の石列も後世の改変と思われる。虎口でもっとも堅固になっているのが曲輪VIIにある虎口Aで両側が石塁を張り出して周辺を石垣で固めており重要な門が設置されていたようである。
積翠寺から県道沿いに少しあがった所に案内板が設置されており、路側帯に駐車可能である。
登山道は整備されており、そこから熊城経由で降りてくることも可能であるが、こちらは分岐などに道しるべがないので上級者向けである。
最寄り駅(直線距離)