築城年代は定かではないが文禄3年(1594年)以降に加藤貞泰によって築かれた。 貞泰は甲斐国甲府城主加藤光泰の嫡子である。
加藤光泰は朝鮮の役からの帰国途中に急死し、家督は嫡子貞泰が継ぐこととなったが幼小であったために美濃国厚見郡内二万五千二百九十二石と、方懸郡内一万四千七百石の合わせて約四万石を与えられ、黒野城を築いて居城とした。
関ヶ原合戦では東軍に属して戦功を挙げ、伯耆国二郡六万石に加増され伯耆国米子に転封となり、黒野城は廃城となった。
黒野城は現在本丸がそのまま公園として残り、現在も方形の土塁と濠が巡っている。 本丸は基本方形だが、南西の虎口付近が西へ張り出し、南東隅の櫓台もやや張り出している。この本丸から南西にある板屋川近くには外郭の土塁が広範囲にわたって残っている。
江戸時代初期に廃城となった平城の黒野城が、市街地の中にありながら現在まで良く残っているのは大変貴重な存在である。