築城年代は定かではないが北方太郎左衛門光就によって築かれたと云われる。
西美濃三人衆の一人安藤伊賀守守就は、斎藤義興を見限って織田信長に仕え、姉川合戦などで功を挙げたが、天正8年(1580年)河渡城主であった実子安藤尚就が甲斐の武田氏に内通した嫌疑により、守就父子は武儀郡谷口村に蟄居し、その所領は稲葉一鉄に預けられた。
天正10年(1582年)織田信長が本能寺の変に倒れると、安藤守就は旧臣を集めて北方城に立て籠もり、稲葉一鉄・貞道父子と戦ったが敗れ自刃して果てた。
北方城は大井神社の南方に築かれていたという。江戸時代には北方城の一部に北方陣屋が設けられ、現在は辺り一面宅地となって遺構は残っていない。
大井神社から南へ進み常誓寺前の道を東へ曲がって道なりに進むと北方城の石碑と案内板が建っている。
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