築城年代は定かではないが建仁年間(1201〜1204年)に二階堂行政によって築かれたのが始まりとされる。
本格的な築城は斎藤道三によるものと考えられ、道三の後は斎藤義龍、斎藤龍興と続くが永禄10年(1567年)織田信長によって稲葉山城は攻め落とされ、龍興は越前の朝倉氏を頼って落ちていった。
小牧山城から稲葉山城へと居城を移した織田信長によって岐阜城と改名される。天正4年(1576年)織田信長が近江国安土を築いて居城を移すと、岐阜城は嫡男織田信忠に与えられた。天正10年(1582年)織田信忠は父信長とともに本能寺の変で倒れ、その後は清洲会議によって信長の三男織田信孝が信忠の嫡男三法師の後見人として岐阜城主となった。
天正11年(1583年)羽柴秀吉と柴田勝家による賎ヶ岳合戦が起こると、信孝は勝家とともに挙兵したが、秀吉に敗れて降伏開城となり、信孝は自刃させられた。
天正11年(1583年)大垣城主となった池田恒興の嫡男元助が岐阜城主となったが、天正12年(1584年)の小牧長久手合戦で父恒興とともに元助も討死、家督を継いだ次男池田輝政は大垣城から岐阜城へ移ったが、天正18年(1590年)小田原征伐の功によって三河国吉田へ十五万二千石で転封となる。
天正19年(1591年)豊臣秀勝が十三万石で岐阜城に入城するが、文禄元年(1592年)の文禄の役で朝鮮において病没し、所領は織田秀信(信忠の嫡男三法師)に与えられた。慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では西軍に属したため、東軍の猛攻を受けて落城、秀信は降伏し高野山へ登った。関ヶ原合戦後は岐阜城は廃城となり、加納城が築かれた。
岐阜城は長良川に面した標高336mの金華山山頂に築かれている。山頂にある本丸には模擬天守があり、山頂近くまでロープウェイで登る事ができる。
岐阜城は険しい金華山を利用した山城である。山頂部の曲輪群は石垣などがあるものの、曲輪の規模は小さく、少数の兵力でしか守ることができない。金華山全体には多数の砦があり、これら全体が岐阜城として連携して守ることとなるが、大軍と大軍が戦うには守り手の連携も難しく、岐阜城が幾度となく落城している要因の一つであろう。
虎口は一の門と二の門がある。一の門は通路に沿って巨石を並べ、内側に小さな番所程度の曲輪がある。二の丸は折れを伴い石段を右曲がりで入る構造で、側面には石垣が良く残っている。
麓のロープウェイ乗り場の近くには織田信長居館跡と呼ばれる居館跡があり、巨石を用いた通路などを見ることができる。居館跡は長らく発掘調査中である。
国道256号線長良橋南交差点の北東辺りに一日300円程度の有料駐車場がある。
金華山へはロープウェイの他、登山道は多数あるが、南端西からの七曲がり登山道が楽。
最寄り駅(直線距離)