築城年代は定かではないが永正年間(1504年〜1521年)頃に小笠原氏によって築かれたと云われる。 井川館を居城としていた信濃国守護小笠原氏が林城に居城を移した時、周辺に築いた支城の一つとして深志城を築いたのが始まりとされる。
天文19年(1550年)武田氏が村井城を拠点として松本平に侵攻した武田信玄は、イヌイの城を落とすと、小笠原氏の林大城・深志・岡田・桐原・山家の五か所の城は自落したという。 小笠原長時を追い払った武田信玄は深志城を改修し、信濃攻略の拠点とした。
天正10年(1582年)織田信長は武田領に侵攻し、武田勝頼が天目山で自刃して滅亡すると、織田信長に通じた木曾福島城主木曾義康に安曇・筑摩2郡が与えられ、義康は深志城に城代を置いた。しかし、同年本能寺の変により織田信長が没すると、滅亡間もない旧武田領は、上杉、徳川、北条といった周辺大名によって争奪戦が繰り広げられ、深志城も例外ではなく木曽氏は追いやられ、徳川家康の援助を受けた小笠原貞慶(長時の嫡子)と上杉家の庇護を受けていた小笠原貞種(長時の弟)によって争われた。結局小笠原貞慶が旧領を回復し、深志城を居城として城下町を整備した。この時、深志から松本と改名し松本城と称された。
天正18年(1590年)豊臣秀吉による小田原征伐の後、徳川家康は武蔵国に国替となった。小笠原貞慶・秀政父子もまた、徳川家康に従って松本城を去り下総国古河城三万石に転封となった。代わって松本城には徳川家康の旧臣で豊臣秀吉の家臣となった石川数正が十万石で封じられた。
数正が没すると嫡子石川康長が八万石、二男康勝は一万五千石、三男康次は五千石をそれぞれ相続した。この康長時代に現在の松本城の原形が築かれた。
和暦(西暦) | 事象 |
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慶長18年(1613年) |
石川康長は大久保長安事件に連座して改易。 小笠原秀政が信濃国飯田より八万石で入封。 |
元和3年(1617年) |
小笠原忠真は播磨国明石に転封。 戸田康長が上野国高崎より七万石で入封。 |
寛永10年(1633年) |
戸田康直は播磨国明石に転封。 松平直政が越前国大野より七万石で入封。 |
寛永15年(1638年) |
松平直政は出雲国松江に転封。 堀田正盛が武蔵国河越より十万石で入封。 |
寛永19年(1642年) |
堀田正盛が下総国佐倉に転封。 水野忠清が三河国吉田より七万石で入封。 |
享保10年(1725年) |
水野忠恒が江戸城にて刃傷沙汰を起こし改易。 戸田光慈が志摩国鳥羽より六万石で入封。以後戸田氏が九代続いて明治に至る。 |
天守(現存 天守)
国宝乾小天守(現存 天守)
国宝辰巳附櫓(現存 櫓)
国宝月見櫓(現存 櫓)
国宝土蔵(現存 倉庫)
二の丸太鼓門(復元 櫓門)
平成11年復元二の丸太鼓門(復元 城門)
平成11年復元本丸黒門(二の門)(復元 城門)
平成2年に復元本丸黒門(一の門)(復興 櫓門)
昭和35年に復興