築城年代は定かではないが鎌倉時代に坂西氏によって築かれたと云われる。 坂西氏の出自については詳らかではないが、飯田城を築いて愛宕城から居城を移したと云われる。
戦国時代には武田信玄によって攻略されたが、天正10年(1582年)織田軍の侵攻により落城した。
織田氏の領地となった後は毛利秀頼が入封したが、本能寺の変の後は徳川氏の領地となり、菅沼定利が城主となった。 天正18年(1590年)徳川家康が関東へ転封となると、菅沼氏は上野国吉井へ移り、毛利秀頼が再度入封する。文禄2年(1593年)文禄の役で秀頼が病没すると京極高知が入部した。
和暦(西暦) | 事象 |
---|---|
慶長6年(1601年) |
京極高知は丹後国宮津へ転封。 下総国古河より小笠原秀政が五万石で入封。 |
慶長18年(1613年) | 小笠原秀政は信濃国松本へ転封。 |
元和3年(1617年) | 伊予国大洲より脇坂安元が五万五千石で入封。 |
寛文12年(1672年) |
脇坂安政の時、播磨国龍野へ転封。 下野国烏山より堀親昌が二万石で入封。以後、堀氏が続き明治に至る。 |
飯田城は松川と谷川の間を細長く東へ伸びた段丘の上に築かれている。
長姫神社の境内となっている辺りが本丸、その東に山伏丸、西の飯田市美術博物館付近が二の丸、合同庁舎の辺りが桜丸、追手町小学校の辺りが出丸、その西に三の丸があった。現在は市街地に没しており、本丸と二の丸の間にある空堀などわずかな遺構しか確認できない。
二の丸であった美術博物館の敷地には発掘調査で検出された溝や井戸などがあり、案内板も多く設置されている。
赤門(現存 城門)
二の丸八間門(移築 櫓門)
桜丸の門(移築 城門)