築城年代は定かではないが鎌倉時代に知久氏によって築かれたと云われる。 知久氏は諏訪大社大祝神氏の支流で上伊那郡箕輪上の平より地頭として知久平に城を築いたのが始まりとされる。
室町時代に神之峰城を築いて居城を移し、知久平城はその出城となった。天文23年(1554年)知久氏は武田氏によって滅ぼされたが、江戸時代には旗本として阿島陣屋を構えて再興している。
天正10年(1582年)武田氏が織田氏に滅ぼされると、徳川家康の家臣で三河国田峯城主菅沼氏の一族、菅沼小大膳定利の居城となった。天正18年(1590年)徳川家康の関東移封に従い菅沼氏も上野国に移り廃城となった。
知久平城は天竜川東岸の河岸段丘の西端に築かれている。縄張は北から南へ出丸・本丸・二の丸・三の丸と続き南端には馬出があったという。
現在は宅地や畑となっており、出丸部分とその近くにある殿様井戸、本丸と二の丸の間の空堀、三の丸の土塁などわずかな遺構を残すのみとなっている。
城の案内板は下久堅保育園の東側の道路沿いと下久堅小学校の南端の東側にある下久堅自治振興センターの所にそれぞれ別のものが設置されている。