築城年代は定かではないが、室町時代初期に小笠原貞宗の子宗政によって築かれたとも云われる。
小笠原氏は室町時代に府中、松尾そして鈴岡の小笠原三家に分かれ、信濃守護および小笠原惣領職の座を争った。文安3年(1446年)惣領の小笠原宗康は弟の光康とともに小笠原持長と漆田原で戦って討死した。その子政秀は鈴岡城を拠点として伊賀良荘を領して勢力を維持し、松尾小笠原氏とは良好な関係にあったが、やがて伊賀良荘の領有を巡って松尾小笠原氏と対立することとなった。政秀は文明12年(1480年)諏訪氏と結んで松尾の小笠原家長を討ったが、明応2年(1493年)正月に家長の子貞基によって松尾城で子の長貞とともに暗殺され、鈴岡小笠原氏は滅亡した。
政秀の養子であった府中の小笠原長朝は、松尾城の小笠原貞基と幾度となく戦って甲斐へ追いやった。その後、松尾城に戻ってきていた貞基であったが、天文3年(1534年)に小笠原長棟に攻められ再び甲斐へ逃れた。その後、長棟の子小笠原信定が鈴岡城主となった。
信定は武田信玄が信濃に侵攻し、府中の小笠原長時が敗れた後も抵抗したが、天文23年(1554年)武田氏が伊那に侵攻すると敗れて京へ逃れた。
鈴岡城は天竜川によってできた河岸段丘の東端に築かれている。北の毛賀沢川を挟んで松尾城と相対する位置にあり、現在は両城ともに公園として整備されている。
鈴岡城は東端に本丸、西から南を囲むように空堀が巡りその外側に二の丸、本丸の北は空堀を挟んで出丸を配している。その外側にも外郭・本城と呼ばれる所があるが、この辺りは農地になっている。
国道151号線鈴岡公園入口交差点から県道444号線に入りしばらく行くと公園への入口がある。二の丸が駐車場になっている。
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