志摩 鳥羽城しま とばじょう

城郭放浪記


△トップに戻る

TOP > > (志摩国/三重県) > 鳥羽城
Tweet
志摩 鳥羽城の写真
掲載写真数
形態
海城(30m/-)
別 名
錦城
文化財指定
県指定史跡
遺 構
石垣,郭
城 主
橘氏,九鬼嘉隆,九鬼守隆,内藤忠重,内藤忠政,内藤忠勝,土井利益,板倉重治,松平光慈,稲垣昭賢,稲垣昭央,稲垣長以,稲垣長続,稲垣長剛,稲垣長明,稲垣長行,稲垣長敬
歴 史

中世に橘氏の居館があったとされ、永正年間(1504〜1521年)橘忠宗の時に伊勢国司北畠材親に降り志摩国二郡を与えられ取手山砦に居城を移したという。

鳥羽城は文禄3年(1594年)九鬼嘉隆によって築かれた。 嘉隆は波切城主であったが、伊勢国司北畠氏の助けを得た志摩七党に攻められ、海路伊勢の安濃津へ逃れた。ここで滝川一益を介して織田信長に接近し、永禄11年(1568年)織田信長を後ろ盾として志摩の平定に乗り出し、小浜城主小浜久太郎、浦城主浦豊後守を攻め落とすと、鳥羽城主橘宗忠も娘を人質として降伏した。嘉隆はこの娘を妻に迎えている。 その後も和具城越賀城などを攻略して志摩を平定した。

九鬼嘉隆は織田信長に属して水軍を率いて各地を転戦し、本願寺攻めでは毛利水軍を敗るなど活躍して、信長亡き後は豊臣秀吉に仕え、朝鮮の役にも出兵した。

慶長2年(1597年)嘉隆は家督を守隆に譲り隠居し、慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では、守隆は東軍に属して桑名城攻めで戦功を挙げたが、父嘉隆は西軍に属して鳥羽城を占拠し立て籠った。西軍が敗れた後は鳥羽城を脱して和具の洞仙庵に入った。守隆は徳川家康に父嘉隆の助命を嘆願して許されたが、この使者が到着する前に嘉隆は自害して果てた。関ヶ原合戦の功によって加増を受けた守隆は五万五千石を所領となった。

和暦(西暦) 事象
元和元年(1615年) 大坂の陣の功などにより五万六千石に加増。
寛永9年(1623年) 九鬼守隆没す。
寛永10年(1624年) 家督相続を巡る争いが起こり、幕府は久隆を三万六千石で摂津国三田、隆季を二万石で丹波国綾部に封じる裁定を下した。
常陸国より内藤忠重が三万五千二百石で入封。
寛文13年(1673年) 三万三千二百石に減封。
延宝8年(1680年) 内藤忠勝は芝増上寺で丹後国宮津藩主永井尚長を惨殺するという刃傷事件により改易。以後天領となる。
延宝9年(1681年) 下総国古河より土井利益が七万石で入封。
元禄4年(1691年) 土井利益は肥前国唐津へ転封。
肥前国唐津より松平乗邑が六万石で入封。
宝永7年(1710年) 松平乗邑は伊勢国亀山に転封。
伊勢国亀山より板倉重治が五万石で入封。
享保2年(1717年) 板倉重治は伊勢国亀山に転封。
山城国淀より戸田光慈が六万石で入封。
享保10年(1725年) 戸田光慈は信濃国松本に転封。
下野国烏山より稲垣昭賢が三万石で入封。以後明治に至る。

説 明

鳥羽城は海に浮かぶ海城で内藤氏の時代に近世城郭として整備されたといわれる。旧鳥羽小学校の運動場が本丸でここには三重の天守が聳えていた。二の丸・三の丸・大手も東の海側であった。安政元年(1854年)安政の大地震による津波などの影響で城は大破し修復もままならなかったようである。

現在は城山児童公園となっている。旧鳥羽小学校の運動場であった本丸の周囲と家老屋敷、家臣屋敷であった旧鳥羽幼稚園の付近に石垣が残っている。

案 内

鳥羽水族館の西側にある丘陵が鳥羽城跡で、西側の鳥羽市役所側から登ることができる。

最寄り駅(直線距離)
0.1km 中之郷駅
0.7km 鳥羽駅
0.7km 鳥羽駅
1.2km 志摩赤崎駅
2.4km 池の浦駅
所在地/地図
三重県鳥羽市鳥羽3(城山児童公園)
付近の城(直線距離)
0.6km 志摩 取手山砦
2.5km 志摩 小浜城
3.7km 志摩 田城城
3.9km 志摩 桃取城
5.5km 志摩 浦城
最終訪問日
2009年10月
TOP > > (志摩国/三重県) > 鳥羽城