築城年代は定かではない。田城左馬之助による築城とも伝えられるが、天文年間(1532年〜1555年)に九鬼泰隆による築城とも云われる。
泰隆は九鬼嘉隆の祖父であるが、伊勢国司北畠氏に属して神官と争い、その功によって二見七郷と加茂五郷を与えられた。嘉隆の浄隆が家督を継ぐと相差・和具・小鹿・安楽島・甲賀・国府・浜島の七党が北畠氏を後援として田城城を攻めたがこれを追い払った。しかし浄隆が急逝して子の澄隆が家督を継ぐと再び七党が攻め寄せ、浄隆の弟波切城主九鬼嘉隆が澄隆を助けて戦ったが敗れて落城し澄隆は朝熊山へ逃れた。
その後、九鬼嘉隆は田城城を取り戻して自らが城主となり、天正10年(1582年)には鳥羽主水に澄隆を暗殺させ当主となった。
田城城は加茂川に河内川が合流する地点の南の丘陵に築かれている。
現在は澄隆の怨霊を鎮める為に九鬼守隆によって建立された九鬼惣領権現が祀られている。丘陵は土取りなどで大きく削られたようで、わずかに空堀が残っているというが、それも確認できなかった。
国道167号線沿いの九鬼岩倉神社の鳥居の所に案内板が建っている。
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