貞治2年・正平18年(1363年)頃に九鬼隆良によって築かれたと云われる。 九鬼氏は隆良の時に波切の川面氏の養子となり紀伊国九鬼城より移ったという。
隆良には嫡子ができず、和具城主青山氏より養子を迎え隆基と名乗った。隆良より四代の九鬼泰隆の時に田城城へ移って居城としていた。隆良の孫にあたる九鬼嘉隆はこの波切城で生まれたと云いう。
九鬼氏は志摩十三地頭の一人であり、互いに盟約を結んでいたが不可侵条約の無視が次第に目立つようになり、伊勢国司北畠氏の助けを得た志摩七党が波切城に攻め寄せ、嘉隆は海路伊勢の安濃津へ逃れた。滝川一益を介して織田信長に接近した嘉隆は永禄12年(1569年)信長が北畠氏の居城伊勢国大河内城を攻めた時、志摩へ戻って志摩七党を敗って、田城城を取り戻して居城とした。
波切城は海へ突き出した岬の高台に築かれている。
現在は大王崎灯台の西に公園として整備されている。平坦地は海に向かってなだらかに傾斜している。
三代九鬼隆次によって建立された仙遊寺には、隆良・隆基・隆次・泰隆・定隆まで五代の五輪塔が残っている。
大王崎灯台を目指す。灯台に向かって登って行く途中に公園があり、そこが城址。
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