応永22年(1415年)北畠顕雅によって築かれたと云われる。 伊勢国司北畠満雅は弟顕雅をこの地に配して北朝方の攻撃に備えた。
永禄12年(1569年)織田信長が南伊勢に侵攻すると伊勢国司北畠具教がここを本拠として信長軍と対峙した。 具教は籠城の末、信長の次男信雄を養子に向かえ家督を譲ることで和議を結び、三瀬館に隠居した。
信雄は家督を嗣ぐとここを本拠としていたが、天正3年(1575年)田丸城を改修し本拠を移して大河内城は廃城となった。
大河内城は阪内川と矢津川との間に南北に伸びた丘陵に築かれている。現在伊勢道が通っており、概ねこれより北側が城域となっていて南北500m程の広さがある。
現在大河内神社の境内となっている所が本丸、その西に西の丸、東下に馬場、納戸、二の丸と呼ばれる所がある。
本丸と西の丸の間には堀切があり、この辺りは「まむし谷」と呼ばれている。西の丸は北と西下に腰曲輪があり、その先の尾根にそれぞれ一条ずつ堀切が残っている。本丸や二の丸辺りは後世の開墾や神社建立など地形の改変が大きい所とされるが、二の丸は圧倒的な広さがある。
二の丸の北端から西へ伸びた尾根には虎口のような方形の窪地、その先には城内でもっとも規模の大きい大堀切がある。
南へ伸びた尾根は西蓮寺の背後から行者の祀られた曲輪、さらに二重堀切を経て曲輪と堀切が続いている。
国道166号線大河内地区市民センター付近に案内板と駐車場がある。そこから橋を渡って歩いて行くと参道入口がある。
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