元亀2年(1571年)北畠具教によって築かれたと云われる。 永禄12年(1569年)北畠具教は大河内城で織田信長の軍勢と戦ったが信長の次男信雄を養子に迎えて家督を譲ることで和睦となり、隠居して大河内城より三瀬館に移った。
和睦して一旦は三瀬館に隠居した具教であったが、老臣鳥屋尾石見守を使者として甲斐の武田信玄に密書を送るなど再起を計っていた。しかし天正元年(1573年)武田信玄は病没し、伊勢長島の一向一揆は織田信長によって壊滅してしまう。天正4年(1576年)正月、年頭の祝儀の使者として鳥屋尾石見守が岐阜城に赴いたが、信長はこの使者に会わず怒って退席するとようやく使者を呼び戻して、具教からの進物を庭に置いたまま長刀を振り回して無言で奥に退いたという。天正4年(1576年)11月織田信長は国司家の家臣藤方刑部少輔・奥山常陸介・滝川三郎兵衛・長野左京亮に具教を討ち取るように命じ、三瀬館にて殺害した。
その後は織田信雄の家臣森清十郎の居城となった。
三瀬館は宮川の北岸にある山塊から南へ派生した山の中腹に築かれている。
東西に砦となる茶臼山と八幡山があり、その間の山腹に数段に及ぶ平地と石垣が残されている。南の民家の脇に北畠具教の胴塚がある。
茶臼山は公園となっているが堀切を挟んで南北二郭の削平地が残っている。八幡山は登っていないがほとんど加工されていない平地があるのみという。
国道42号線上三瀬のバス停の西に道標がある。ここを曲って北上した先に周辺の案内板があるので、道標に従っていけば館跡につく。
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