築城年代は定かではない。
北畠氏の被官野呂越前守・野呂伊予守の居城で野呂氏が討死した後は安保式部少輔・安保大蔵大夫が城主となったという。
北畠氏の養子となった織田信長の三男信雄は天正4年(1576年)三瀬館で北畠具教を討ち北畠氏は滅亡した。具教の弟具親は還俗して川股森城に拠って北畠氏の再興を計るが果たせず、信長が本能寺の変で倒れると再び五箇篠山城に籠ったが織田信雄の軍勢に僅か二日で敗れ、具親は伊賀国へ落ちたという。
五箇篠山城は櫛田川の南岸に聳える標高137mの独立峰の山頂に築かれている。
城は東西に曲輪を並べた連郭式山城であるが、各曲輪の標高差はほとんどない。 西端の曲輪は西側にコの字状に低土塁が残り、南東が一段低く、東に高土塁がある。そこから東へ二重堀切、やや狭い曲輪、堀切、東西に長い曲輪、堀切、東側が南へ広がるを見せる東西に長い曲輪、その下の尾根に堀切となっている。
中央に少し高くなった二つの曲輪は薮であったが他の所は比較的見やすく整備されている。
勢和小学校の南にある国道368号線と県道704・429号線の交差点を南へ進み橋を渡って右側の坂道を登ると勢和図書館がある。ここに遊歩道の入口がある。勢和図書館の中には五箇篠山城の模型や郷土資料の展示がある。
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