建部3年・延元元年(1336年)北畠親房によって築かれたと云われる。 南北朝時代は玉丸城と呼ばれ南朝方の北畠氏の愛州忠行が城主で養子政勝の時に玉丸と名乗った。
天正3年(1575年)北畠信雄は大河内城を廃し田丸城に本拠を移し三層の天守を上げたが、天正8年(1580年)放火により焼失し再建することなく、松ヶ島城を築いて移った。
天正12年(1584年)蒲生氏郷が松ヶ島城に入封すると、氏郷の妹婿となっていた玉丸直昌が再び田丸城主となった。 氏郷が会津若松城に移封となると直昌も三春城主として移った。
その後は稲葉道通が城主となったが元和元年(1615年)摂津国中島に転封となり、田丸城は津城主藤堂高虎の預るところとなったが、御三家の一つ紀伊国和歌山藩が興されるとその所領となり家老久野氏が城主となった。
富士見門(移築 長屋門)
三の丸奥書院(移築 書院)
蔵(移築 倉庫)
蔵(移築 倉庫)
城門(移築 城門)
城門(移築 城門)