築城年代は定かではないが元亀年間(1570年〜1573年)に長野信良によって築かれたと云われる。 長野信良とは織田信長の弟織田信包のことで、永禄11年(1568年)伊勢に侵攻した信長は長野城主長野氏や一族で安濃城主の細野氏らと戦い、和睦の条件として信包を養子に迎え長野信良と称した。当初上野城主であったが、元亀年間(1570年〜1573年)頃に安濃津城を築いて移ったという。
天正8年(1580年)には五重の天守が完成、織田信包は長野氏一族の排除を画策し、細野氏の安濃城に侵攻すると、細野藤敦は城に火を放って逃れた。また長野氏一族の雲林院城主雲林院出羽守も伊勢から逃れた。その後、信長の命によって長野家との養子縁組を解消し、織田信包となった。
天正10年(1582年)信長が本能寺の変で倒れると、十五万石の大名となって秀吉に従った。しかし、文禄3年(1594年)秀吉の機嫌を損ねて改易となり、後に丹波国柏原三万六千石で大名に復している。
信包が改易となると、秀吉の家臣富田一白が六万石で安濃津城主となった。 慶長4年(1599年)知信が没すると嫡男富田信高が家督を継いだ。翌5年(1600年)関ヶ原合戦で徳川家康に従い上杉討伐に向かう途中で石田三成の決起が伝えられ、信高は急ぎ津城へ戻り西軍を迎え撃つべく籠城した。西軍は毛利秀元を大将とする三万の軍勢、対して籠城する富田の軍勢は二千にも満たなかったという。激しい戦闘ののち和睦開城となった。
関ヶ原合戦後にこの功績が認められ二万石の加増を受け、慶長13年(1608年)には伊予国宇和島十二万石に加増転封となった。替わって伊予国今治より藤堂高虎が伊勢・伊賀二十二万石で入封、津城は大改修された。
その後は藤堂氏が続き、三十二万三千石の大名として明治に至る。
津城は現在津市役所の東隣にある「お城公園」となっている。
お城公園は津城の西ノ丸と本丸の大部分であるが、南から東側は堀などが埋め立てられており、曲輪としては原形を留めていない。
西ノ丸は南の土橋から虎口を入ると藩校である入徳門が移築現存している。西ノ丸から本丸へはさらに土橋を渡って入る構造であったが、現在は区別なく繋がっている。
本丸は北西隅の戌亥櫓台、南西の天守台、北と南に多聞櫓台などが残り、東の公園入口には津城のシンボルとなっている摸擬の三重櫓が建っている。
入徳門(移築 城門)
隅櫓(模擬 櫓)