文永11年(1274年)長野祐藤によって築かれたと云われる。 長野氏は鎌倉御家人工藤祐経の子祐長が延応元年(1239年)伊勢国安濃・庵芸二郡の地頭職を得て、その子祐政が長野に下向して長野氏を名乗ったことに始まる。このため、他の長野氏と区別するため長野工藤氏とも呼ぶ。
南北朝時代長野氏は北朝方としてしばしば南朝方の北畠氏と戦った。 永禄元年(1558年)長年に渡る長野氏と北畠氏との間で講和が成り、北畠具教の次男具藤を長野藤定の養子に迎え十六代当主として家督を譲ることとなり、事実上北畠氏の配下となった。
永禄11年(1568年)頃から織田信長は中伊勢に侵攻する。長野氏の一族である細野藤敦は安濃城に籠って織田軍に抵抗したが、分部光嘉・川北藤元は織田信長の弟信包を長野家の養子に迎えて和議を整えようとした。しかし長野具藤は細野藤敦が信長方に属したとの流言に惑わされて細野氏を攻めたが、逆に藤敦に攻め込まれて生家である北畠氏を頼って落ち延びた。これにより信包が長野氏の当主となり長野一族は織田信長の配下となった。
長野城は伊賀街道を見下ろす標高580mの山上に築かれている。城の規模は小さいが南北朝時代の山城らしく標高の高い天然の要害に築かれており、北は伊賀街道と長野川、南は桂畑川による谷となっている。
西の尾根に一条の堀切を設け、主郭は東側にコの字状に低土塁が残っている。北東に伸びる尾根には西側を土塁状に削り残した削平地がある。
登山道はいくつかあるようです。中野集落に登山道の案内がありましたが雨が降りそうな雲行きで、駐車スペースの確保も難しいようでしたので、南の桂畑川に沿った谷を通る林道を使って行きました。山頂付近まで整備用の林道が通っているのですが、先日の台風の為か土砂が崩落して通行禁止になっています(2009年11月現在)。林道の別れ道の所に駐車スペースがあるので、ここから歩きました。ここから城跡まで比高190m、直線距離で約1km、道は大きく迂回しているので1.5kmくらいでしょうか、徒歩約25分くらいで着きました。林道は道幅は広いですが最低地上高が低い車だと轍で車の底を擦りそうな場所がいくつかあります。
最寄り駅(直線距離)