築城年代は定かではないが戦国時代末期に築かれた丸串城がその前身である。
天正3年(1575年)には黒瀬城主西園寺公広の弟西園寺宣久が丸串城に入り、豊後の大友氏に備えた。天正13年(1585年)羽柴秀吉により四国征伐の後、伊予一国は備後国三原城主の小早川隆景に与えられると、家臣の持田右京を城代として置いた。天正15年(1587年)小早川隆景は筑前国名島へ転封となり、替わって戸田勝隆が大洲へ入封すると、家臣の戸田信家が城代となり丸串城へ入った。
文禄4年(1595年)藤堂高虎が七万石の大名として板島に入封し丸串城を居城とすると、文禄・慶長の役の功によって一万石を加増され、八万石の大名となった。この頃、藤堂高虎によって近世城郭へと改修された。高虎は関ヶ原合戦で東軍に属して戦功を挙げ、十二万石の加増を賜り二十万石の大名となると、国府へ移り、さらに今治城を築いて居城とした。
慶長13年(1608年)伊勢国安濃津から富田信高が十二万石で入封した。しかし、慶長10年に発生した石見国津和野城主坂崎直盛の家臣を殺害した宇喜多左門を匿った罪によって、慶長18年(1613年)に罰せられ改易となった。
慶長19年(1614年)仙台藩伊達政宗の長子伊達秀宗が十万石で宇和島へ入封し、以後代々伊達氏が続いて明治に至る。
宇和島城は宇和島湾に面した標高73m程の独立峰を中心にした平山城で、現在は城山公園として整備されている。
宇和島城は城山山頂に本丸、北に二ノ丸、さらに北に藤兵衛丸、長門丸、本丸南西下に代右衛門丸、式部丸、東麓に三ノ丸が配されていた。城山の周囲には五角形に堀が巡らされ、南東に大手門、南に搦手門があった。
現存する天守は寛文6年(1666年)頃、伊達氏二代伊達宗利のとき、修築と称して層塔型の三重三階玄関付に建て替えられたと云われ、それ以前の藤堂氏によるものは望楼型天守であったとされている。かつては大手門が残されていたが、戦災により焼失、天守と搦手側にある上り立ち門が現存する建物である。
城の南側にある御殿町に伊達博物館があり、その横に天赦園がある。天赦園には追手門のかずら石が保存されている。
天守(現存 天守)
上り立ち門(現存 城門)
藩老桑折氏武家長屋門(移築 長屋門)
山里倉庫(移築 倉庫)
登口は東側の大手、南側の搦手にあるが、大手側は入口周辺に有料駐車場がある。
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