築城年代は定かではないが天文年間(1532年~1555年)頃に西園寺実充によって築かれたと云われる。 西園寺氏ははじめ松葉城を本城としていたが豊後の大友氏や土佐の一条氏に備えるために黒瀬城を築いて居城を移したという。
天正12年(1584年)実充の跡を継いだ西園寺公広のとき長宗我部氏に降伏した。公広は豊臣秀吉による四国征伐の後、伊予一国を与えられた小早川隆景の時代は在城を許されていたと云われるが、その後宇和地方の領主として大洲城へ入った戸田勝隆によって下城を命ぜられ、翌年謀殺された。
黒瀬城は宇和運動公園の北西にある尾根に築かれている。宇和運動公園を取り囲むように黒瀬城の支城群が築かれている。
黒瀬城は鉄塔のあるところが主郭であり、城内で最も広い曲輪となる。中央南側に大きな枡形虎口があり南下の帯曲輪VIと結ばれる。主郭の東下には腰曲輪IIがあるが、西側はやや低くなりそのまま主郭の北へ伸びて横堀となる。
主郭の東にIII、IV、Vの三段の曲輪があり、IIIには基壇の跡が残る。東端は土塁で北側も一部土塁が残り、南は帯曲輪VIから続く通路がそのまま横堀状に伸びている。北側にも横堀3があり、西端は北へ張り出す形の腰曲輪VIIがある。
東端の曲輪VIIIは東屋があるが曲輪は岩場もあるためか傾斜を残し削平も甘い。南側は土塁状になるが西端部分に切れ目がある。この部分が虎口となっていたかもしれない。
東の先端側面には竪堀5、6があり、南東下の段の西端に畝状竪堀群のような形状で二条の連続竪堀7が残っている。この部分は現在の登山道が登ってきている部分であり、曲輪VIIIの一部に石段が設けられるなど改変されている可能性が高い。
伊予西園寺家の最後の当主西園寺公広の墓が卯之町3の光教寺にある。ここには公広が大洲城に行く前に詠んだという辞世の句が刻まれた碑が建つ。
宇和運動公園の北西側に登山道の入口があり、案内板が設置されている。この少し手前に運動公園の駐車場がある。案内板の所から登り、西の堀切から降りてくることができる。
登口は何か所かある。宇和町運動公園に無料駐車場があり、東端南麓に登山道入口と案内板がある。通常はこのルートをお勧めする。
もう一つ未舗装林道のところから西登山口があり、ここからだとほぼ平行移動で主郭まで行くことができる。また岡城に行くのもすぐだが、林道はしっかりしているものの未舗装で分岐がいくつかある。
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