永禄10年(1567年)頃に小早川隆景によって築かれたのが始まりと云われる。 新高山城を居城とした小早川隆景は天文年間(1532年〜1555年)頃に沼田川の河口にある三原の中洲や小島を用いて三原要害を築き、それが現在の三原城の原形となった。
天正10年(1582年)には新高山城から三原城へ居城を移し、城下町を整備して町屋や寺社などが三原へ移された。天正13年(1585年)秀吉による四国征伐では毛利勢の主力として伊予へ上陸して戦功を挙げ、戦後に伊予一国が与えられた。
天正14年(1586年)秀吉の九州征伐にも従軍し、戦功として筑前一国と筑後、肥前の一部を加増され、五十二万石余の大名となった。このとき筑前国名島へ居城を移したが三原城も維持された。
隆景には実子がなかったため、毛利元就の九男秀包を養子に迎えていたが、文禄3年(1594年)に秀吉の養子である木下秀俊を養子に迎えた。これが後の小早川秀秋で、翌文禄4年(1595年)秀秋に家督を譲って三原城に隠棲した。このとき旧小早川家臣団の大半は三原へ引き上げている。なお、廃嫡となった小早川秀包も別家を興すことを許され、筑後国久留米城主となっていた。
慶長2年(1597年)隆景が没すると毛利領となったが、関ヶ原合戦の後は安芸国広島に入封した福島正則の所領となり、家臣の福島正之が入城した。その福島氏も元和5年(1619年)石垣の無断改修を問われて改易となり、替わって浅野長晟が紀伊国和歌山から入封すると、その筆頭家老浅野忠吉が紀伊国新宮より移り三万石で城代家老となった。以後三原城はこの忠吉の系統が代々城代となっている。
三原城は沼田川の河口の中洲や小島を利用して築かれた海城で、満潮時に海に浮かぶ要塞の姿から「浮城」の名が残されている。北側の桜山城を詰城とし、三原駅付近の本丸を中心として、西に二ノ丸、西築出、東に三ノ丸、東築出があった。
現在は市街地に没して断片的な遺構しか残されていない。遺構は大きく三ヶ所あり、天守台付近、船入櫓付近、大手中門付近である。
天守台付近はわかりやすく、三原駅の北口に巨大な天守台とそれを巡る水堀が残る。この天守台は本丸の北端に位置している。天守台というよりは天守曲輪と呼ぶ方が適切で、三原城には天守が挙げられたことはなかった。この天守台は公園となっており、三原駅構内から遊歩道が付いている。無料であるが夜間は閉ざされている。天守台の西側にあるロータリーには小早川隆景像があり、東側には鍛冶曲輪の案内や高架橋下に石垣が部分的に残っている。
船入櫓付近は三原駅南東にあり(地図)、城町公園となっている。櫓台の上に登る道は三原駅の南東側にあり、東下には船入跡が残る。櫓台の石垣は西、南、東の三方にあり、横矢構造も残されている。
大手中門付近は三原駅南西にあり(地図)、ペアシティ三原の西側で南北に石垣と堀跡があり、土橋の大手中門跡が資材搬入口となっている。
御作事奉行所門(移築 城門)
侍屋敷門(移築 城門)