元和4年(1618年)浅野忠吉によって築かれた。 関ヶ原合戦後、浅野幸長が和歌山城主となると、家老の浅野忠吉に二万八千石を与え新宮に置いた。この忠吉によって新宮城の築城が始まったが、元和の一国一城令によって一旦は廃城となる。しかし、元和4年(1618年)に築城は再開された。
元和5年(1629年)浅野長晟が安芸国広島に転封となると忠吉は備後国三原へと移った。 浅野氏に代わって徳川家康の十男頼宣が入封するとその付家老として遠江国浜松から水野重仲が三万五千石で入封、この水野氏の時代に完成したという。
新宮城は熊野川に面した比高40m程の丘陵に築かれており、現在は丹鶴城公園として整備されている。
新宮城は山上の曲輪として東端の本丸から西に鐘ノ丸、松ノ丸と続いており、高石垣が巡っている。本丸から北へ付きだした尾根に小さな出丸がある。
大手は松ノ丸から降りた正明保育園などがある辺りで石垣が残っている。本来の大手道は途中から残っているが、下のほうは消滅している。
新宮城の特色として北側にある熊野川に面して水ノ手があり、舟入り遺構などが整備されている。
本丸の南山腹に駐車場がある。
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