紀伊 新宮周防守屋敷きい しんぐうすおうのかみやしき
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築城年代は定かではないが元亀2年(1571年)頃に新宮周防守行栄によって築かれたと云われる。
新宮行栄は新宮十郎行家の子孫と云われ、熊野七上綱(七人衆)の一人として熊野を統治した。天正19年(1591年)堀内氏善によって討たれたと云われる。
新宮周防守屋敷は本広寺一帯に築かれていたという。江戸時代までは堀跡が残っていたと云われるが、現在はそれもなく、山門脇に新宮周防守屋敷跡の石碑が建つのみである。
広寺は江戸時代に新宮城主であった水野氏の菩提寺である。