築城年代は定かではない。
南北朝時代の城主は鵜殿氏で、鵜殿氏は高倉下命の後裔とされる。 鵜殿氏ははじめ南朝方であったが北朝方に転じ、永徳2年・弘和2年(1382年)には南朝方の北山郷の攻撃を受け落城した。熊野水軍の拠点の一つであったという。鵜殿氏は新宮衆徒として戦国時代まで勢力を持っていた。
また、鵜殿氏の一族には三河へ進出して上郷城主となり、今川義元のちに徳川家康にも仕えた鵜殿氏がいる。
鵜殿城は熊野川の河口、北岸にある独立丘陵の南東の尾根先に築かれており、現在は公園として遊歩道が整備されている。
円形に土塁が巡る単郭の城で、南と北の尾根をそれぞれ堀切で遮断している。土塁は一部低くなっているものの全周しており、明確な虎口は確認できない。
堀切には遊歩道として木橋が架けられているが小規模な土橋が残っているので、そこから出入りしていた可能性がある。南の堀切1は途中平坦面になっているが、これは後世の改変で埋められたものと推測される。
国道42号線沿いにある矢渕中学校の東の尾根に城址がある。東麓の「紀宝町ふるさと歴史館」に駐車可能でそこから遊歩道がある。
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