天文21年(1552年)小早川隆景によって築かれた。 竹原小早川家の養子となった毛利元就の三男隆景は、その後、本家沼田小早川家の養子となり木村城から高山城に移ったが程なく新高山城を築城しこちらを本拠とした。
隆景は後に五十二万石で筑前国名島城に移封となるが、養子の秀秋に家督を譲り隠居すると、慶長元年(1596年)には三原城を隠居城として大改修した。
この時、新高山城の石垣の石は三原城に移された。
新高山城は沼田川の西岸に聳える標高198m程の山に築かれており、登山道が整備されている。登口から主郭部など主要な遺構はわかりやすいが、西側の遺構などを確認しようとすると道標などは出ていないので、縄張図をよく確認して見学するのが良い。
新高山城は東端の山頂に本丸、北下に釣井の段、西へ中の丸、石弓の段、西の丸、北の丸と続く。中の丸から南へ伸びた大手の尾根には匡真寺跡、番所、鐘の段があり、西の尾根には紫竹、シンゾウス郭などがある。
大手道から登ると谷間の道を北へ登っていく。道の東側には番所、西側には鐘の段、上り詰めた先は匡真寺跡である。番所は谷間に沿って南北に三段の曲輪があり、上段は大手道に面して土塁を設け、脇には石積や列石なども確認できる。
鐘の段は南へ張り出した尾根の先端が小高くなった所にあり、中央が小高くなって鐘の段となり、北側山腹には横堀状の通路らしき遺構がある。この小高くなった部分を中心に四方に曲輪が展開している。この辺りは独立性が高く、新高山城の初期の遺構とも考えられている。
匡真寺跡は大手道を上り詰めた所にあり、天正5年(1577年)に小早川隆景の父毛利元就の七回忌、母妙玖の三十三回忌の法要が行われた場所である。ここには瓦片が散乱し、土塀跡や石塁、北背後には庭園の庭石や池のような跡が残る。
匡真寺跡から登ると中の丸に至る。中の丸は本丸の西側から北側を取り囲むような曲輪で、東に本丸、西に石弓の段、西の丸、北の丸と続く。
本丸は北中央と南西に虎口がある。北中央虎口2が大手で、北側に石段が一直線に伸び、脇に門跡か櫓跡のような石垣が付く。南西虎口2は内桝形で外側は細い通路。内部は土塁が付き、脇に列石が残る。本丸の東側の最高所は詰の丸で、この端に音声ガイドが付いており、景色を堪能しながら聞くことができる。
本丸の北下にある広大な曲輪群が居住空間で、多数の石組み井戸が残る釣井の段や石塁や石垣が残るライゲンが丸、東の丸、西側には中の丸から北へ続く曲輪がある。
中の丸から西の石弓の段、西の丸、北へ向かうと北の丸がある。この手前から別ルートで降りていく道があり、それを降ると西山腹にある畝状竪堀群を経て紫竹に至る。ここから更に南尾根に伸びる曲輪群へ降りていくと、シンゾウス郭に至る。
新高山城の石垣は至る所に点在しているが、矢穴石を使った石垣は釣井の段の南方、虎口4の脇にある。本丸の虎口1から中の丸に降りてきたところの石垣も巨石を使ったものとなっている。東の丸I12の西側面も石垣の残りが良い。
虎口は石段を用いたものが随所に見られ、虎口3は大手外枡形、虎口1は内側に土塁囲みの空間があり内枡形になっている。虎口5は小さいが石垣で固められた虎口になっている。
仕切り土塁(石塁)と虎口を併せ持っているのが、曲輪I5、曲輪II3の東西にある。曲輪IIIの東側に土塁があり、現在の登城路は東側を登っているが、土塁の脇から折れて入っていた可能性がある。これと同じような土塁が曲輪V6にも確認できる。
国道2号線本郷大橋西詰から沼田川に沿って北上していけば、大手登山口に至る。登山道入口の北側に駐車場が用意されている。(地図)
最寄り駅(直線距離)