正嘉2年(1258年)小早川政景によって築かれたと云われる。 政景は沼田小早川茂平の四男で都宇竹原荘を与えられ竹原小早川家の祖となった。
応仁の乱が始まると沼田小早川本家と争うこととなるが、沼田小早川家の本城である高山城を包囲するなど本家を一時的には凌駕する。
天文10年(1541年)13代の興景が佐東銀山城攻めの陣中で病死すると、天文13年(1544年)毛利元就の三男隆景を養子に迎える。 天文19年(1550年)には隆景は本家沼田小早川繁平の養子となり、翌年高山城に移り、その後は支城として維持された。
木村城は標高351.0mの城山から加茂川に沿って北へ伸びた丘陵の頂部に築かれており、現在は県指定史跡として整備されている。ちなみに南方の城山は木村城の詰城とも云われるが、『広島県中世城館遺跡総合調査報告書』によれば明確な遺構は見つかっていないようである。
主郭は山頂にあり南北二段の小さな曲輪iで、礎石のような石が点在して残っている。この最高所を取り巻くように曲輪ii、iii、ivなどが続いており、これらが主郭部を形成する。
主郭部の北下にある曲輪vが城内で最も広く、北と南に小さな段差の段が設けられているが後世の改変もある。曲輪vの東下に曲輪vi、さらに下方に曲輪viiがある。曲輪viiとviは現在の登山道で直接繋がっているが、南のix下を経て曲輪vの東端に登るスロープかあり、これが本来の城道と考えられる。曲輪viiは南東から現在の登山道が延びているが、北側にある曲輪viiiとの間から北東の墓地を経て登る道があり、これが大手であろうか。
木村城は一般的に畝状竪堀群が多く残る城として知られているが、そのパターンは様々である。まず堀切は南尾根を遮断する堀切1の部分のみである。現状では二条の堀切が確認できるが、その他にも段状の遺構があり、多重の堀切であった可能性がある。
南西にある連続竪堀2の部分は大きな四条の竪堀が点在し、その間の尾根部分に鋭角になった竪堀状の遺構が残る。南東の畝状竪堀群3は竪堀の間の細い土塁がいくつか残されており、整然と並んだ畝状竪堀群であったと思われるが、後世の改変もあって明瞭な竪堀は数条である。その北にある畝状竪堀群4はu字に組み合わせた竪堀の内と外にそれぞれ竪堀を配して畝状竪堀群とする。畝状竪堀群5は曲輪ixの下方8mを起点としており、この城のなかでは曲輪面に近い竪堀となる。最後に北東に位置する畝状竪堀群6は一部上下二段になっており、下方は高いコブを伴う。上部も南側は掘り下げ型の竪堀であるが、北には二ヶ所コブ起点の竪堀となっている。
国道2号線新庄交差点を南へ曲がって、国道432号線で竹原市街地方面に南下すると左側に木村城入口の看板が建っている。そこから道なりに東の谷へ回っていくと登山道入口に石碑と案内板が建っている。駐車場はその少し先にある。
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