建長8年・康元元年(1256年)大多和季盛によって築かれたのが始まりと云われる。 大多和氏は桓武平氏三浦氏の庶流で、相模国三浦郡大田和邑発祥である。大道城主にも大多和氏が居る。
大多和氏は季盛、為盛、八郎太郎入道と三代続いたが、正平8年・文和2年(1353年)大多和八郎太郎入道は北朝方に敗れて自刃した。この功によって文和3年・正平9年(1354年)平賀遠江兵衛蔵人貞宗に安芸国入野郷(大多和八郎入道、小池大輔芳等の跡)を恩賞として足利尊氏より宛がわれている。(平賀家文書3)
応永2年(1395年)平賀真宗の次男次郎時宗が入野郷地頭となり、松ヶ嶽城を居城として入野氏の祖となった。入野氏はその後、加賀守宗継、宮内少輔宗政、出羽守宗永、左衛門大夫保継と続く。永正15年(1518年)入野保継は惣領家を離れて小早川氏に従おうとし、平賀弘保・興貞父子に攻められ松ヶ嶽城で自刃した。弘保は次男民部少輔貞景を入野氏の後継としている。
松ヶ嶽城は竹林寺から南西に伸びた尾根の先端にあり、北西から南東に長く伸びた標高450m付近に築かれている。
東西100m程の規模で北西端の最高所から南東方向に伸び、内部は小さく三段程に分かれている。北の竹林寺側は大きな鞍部で土橋状の道があり、小さな堀切が付いている。
曲輪内は雑木林で歩くのに苦労するが、中央付近にある石組井戸までは歩きやすくなっている。南側面や南東側面、南に一段ある腰曲輪など、石積が随所に残されている。
山頂近くの竹林寺まで車道が付いており、近くまで車で登ることができる。城跡へは竹林寺の仁王門前から道標が出ており、それに従って降って行けばたどり着く。
松ヶ嶽城の石碑と大多和八郎太郎入道之墓が南東下の道路沿いに建てられている。(地図)
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