文亀3年(1503年)平賀弘保によって築かれた。
平賀氏は鎌倉時代から
御園宇城を居城としていたが戦国時代となりそこでは籠城もままならないことから自領の中心位置する白山に築城し拠点を移した。
白山城は交通には便利であったが急峻な山ではなく堅固ではなかったので周辺に滝山城、新開城などの支城を築いて防御を固めた。
また、急峻な頭崎山城も築き嫡男興貞を置いた。
永正年間から大永年間にかけてこの地に近い鏡山城をめぐって大内氏と尼子氏の対立が激しくなると白山城の弘保は大内方、
頭崎城の興貞は尼子方に分かれ天文4年(1535年)と天文5年(1536年)に両者は戦っている。
これらの対立により次第に平賀氏は衰退していくこととなる。
現在は平賀氏の遺構の一つとして県指定史跡となっているが、
頭崎城、
御園宇城とは異なり荒れるがままに放置されている。
城の西側から登ることができるが倒木をかい潜りながら登ったまではまだ良かったが頂部の曲輪郡は完全に竹薮で覆われており一歩進むのにも苦労した。
本丸から西に続く帯曲輪と本丸の東にある曲輪は何とか確認したがほとほと疲れた。