建永元年(1206年)頃、沼田小早川茂平によって築かれたといわれる。 小早川氏は相模国土肥郡の土肥実平が沼田荘に地頭として入部したことに始まる。
竹原小早川家に養子に入った毛利元就の三男隆景を天文19年(1550年)に本家沼田小早川家の養子として迎えた。< 小早川隆景が宗家の沼田小早川家の当主なると木村城から高山城に移ったが程なく天文21年(1552年)沼田川を挟んだ対岸に新高山城を築城し本拠を移した。
高山城は沼田川東岸の標高198mの山塊に築かれている。 高山城のある山は周囲に岩肌が露出する要害であるが、山上は広く中央の谷間を挟んで南北に尾根があり、それぞれ北西から南東側へと伸びている。
高山城は馬場と呼ばれる谷間を挟んで北と南に尾根があり、北の尾根は北西から南東に向かって北の丸、二の丸、本丸、扇の丸と続く。南の尾根は北西から西の丸、太鼓丸、高野丸(権現丸)、イワオ丸、西丸、出丸と続いている。(曲輪の名称は案内板による) 基本的に曲輪は1m前後の段で繋がっており、堀切や土塁などは余り使われていない。石垣(石積)は随所にあるが、これも土留程度のものである。
北の丸は北端から東西大きく三段程の曲輪があり、中央の段が石積によってわずかに高くなっている。東端南に虎口があり、ここからの通路は土塁状のやや高い地形で、二の丸に通じる。
二の丸は西端が南西側に向かって段となり、東西に長い曲輪である。ここから一段下がった曲輪を経て本丸に至る。本丸はやや南北に長い地形である。本丸の南東側に扇の丸があり、西端が高く東へ段々と曲輪が付く。
本丸と扇の丸との間に三尺道と呼ばれる道があり、搦め手側から馬場へ繋がっている。この通路に虎口があり、扇の丸側には石積が良く残っている。
馬場を挟んで南の尾根には北西側から西の丸、、太鼓丸、高野丸(権現丸)、イワオ丸と続く。高野丸とイワオ丸の間の曲輪は南側に明瞭な土塁が付いている。イワオ丸から西丸を経て出丸へと至るが、この出丸が高山城内で最も異質な存在である。 出丸は西側に高い土塁と堀切を設けて遮断しており、土塁の南端は石積、堀切は竪堀となっている。
登山道は大きく南の大手道、北の搦手道がある。道自体は整備された山道であるが、その入口を示す案内は全く出ておらず、登り口を探すのは一苦労である。
以前登った大手道は南側の塔之岡にあるが付近には駐車場はない。ここから登る場合は住民の方に聞いたほうがわかりやすい。
北の搦手口も道標はないが、道の終点の墓地脇に登山入口があり、こちら側は駐車場がある。搦手口は県道50号線を北上して香積寺入口を過ぎ、新幹線の高架橋を潜って200m程進むと左上の団地へ登る道があり、それを上に上り詰めた所にある。(地図)
最寄り駅(直線距離)