城主は岡崎十郎左衛門頼兼と伝えられる。頼兼は神辺城攻撃に際して出陣せず、小早川隆景によって滅ぼされたという。
頼兼城は山陽新幹線頼兼トンネル東側出口のちょうど北側に位置する。東へ向かって舌状に伸びた丘陵に築かれていたと云うが、現在は畑地となって明確な遺構は残っていない。西側の道路沿いに「頼山陽先生遠祖頼兼城址」の石碑が建っている。
山陽新幹線建設に伴って南側の一部が発掘調査されているが、近世の陶磁器などは検出されたものの中世を示す遺物は少量であったという。 現在西側に切通状に道路があり、ここが堀切であった可能性はある。
三原バイパス頼兼icを降り、北東へ曲がると直ぐに山陽新幹線の高架下に至る。高架沿いの道に入り西へ進み、二本目の高架下を潜って北へ道なりに坂を登ると右へ曲がる。この先右側に石碑が建っている。
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