築城年代は定かではないが浦氏によって築かれた。 浦氏は小早川宣平の七男氏実が豊田郡浦郷を所領して浦氏を称したことに始まり、代々小早川氏に従った。
浦氏は五代元安に嗣子がなかったため、乃美家氏の子賢勝に家を継がせた。賢勝の子が浦宗勝(乃美宗勝)で、毛利元就が厳島で陶晴賢を敗った厳島合戦において、村上水軍を味方にするべく外交をした人物として有名である。また、永禄4年(1561年)には大友氏の武将伊美弾正左衛門を討ち取り、永禄11年(1568年)には尼子再興軍や大内輝弘の挙兵によって、毛利の主力が九州より引き上げる中、少数にて立花山城に籠城した。天正3年(1575年)石山本願寺への兵糧補給戦でも活躍している。
賀儀城は忠海港の西にあり、海に面して張り出した丘陵に築かれており、現在は公園となっている。
公園造成や風化しやすい土質もあって遺構の判断は難しい。山頂にある忠魂碑がたつ大きな曲輪が主郭で、北下にあるのが二郭とされる。北東下の現在の通路は堀切跡のようでもあり、その奥にも小さな平段iiiがある。曲輪iiは北端がやや高く土塁跡とも云われる。東と西にそれぞれ虎口形状があるが、西側は特に不自然な入口であり本来の形状を残しているのかもしれない。この途中に井戸跡らしきものがある。
この城の最大の見所が「舟隠し」と呼ばれるもので、海に面した南側にポッカリと口が開いており、奥がやや高く壁には楔を打ち込んだような穴がたくさん空いている。船を係留するロープなどを打ち込んでいたのであろうか。この遺構は干潮時であれば中に入れそうである。
忠海駅から近い。周囲の道は細く公園には駐車場がないが、西の床浦神社に駐車可能。
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