築城年代は定かではないが建武年間(1334年〜1336年)大友貞範によって築かれたと云われる。 大友貞範は豊後国大友氏6代貞宗の子で立花に入部して立花氏を名乗った。
永禄11年(1568年)立花鑑範は安芸国毛利氏に通じて大友氏に反旗を翻した。これに対して大友宗麟は戸次鑑連(立花道雪)を将として大軍を送り、三ヶ月に及ぶ攻防の末に落とし、立花鑑範は自刃した。 その後も大友氏と毛利氏の間で争奪戦が繰り広げられたが元亀元年(1570年)大友氏の支配となり、翌2年に戸次鑑連が立花山城主となった。
戸次鑑連の養子なった立花宗茂は島津氏の大軍に対して立花山城を守り抜き、天正15年(1587年)筑後国柳河に移封となった。 替わって入部した小早川隆景は名島城を築いて居城としたため、重臣の浦宗勝を城代として置いた。
立花山城は立花山(井楼山とも)山頂を主郭として築かれており、東西約1kmにも及ぶ巨大な山城である。ここでは、各遺構の位置をわかりやすくするため、白岳、松尾山、イバノヲ・大タヲ、大つぶら、小つぶら、秋山谷南尾根、南尾根遺構、馬責場、大一足、小一足に分けて紹介している。各部の詳細については各ページを参考にして頂きたい。
大まかな遺構を紹介すると、石垣があるのは主郭部とイバノヲ・大タヲ、小つぶらの辺り、畝状竪堀群は南尾根遺構と小つぶらで確認できる。
立花山城の主郭部は立花山(井楼山)の山頂部一帯である。登山者に人気の山だけあって、主郭にはいつも大勢の登山客で賑わっている。主郭部は西が一段小高く三角点がある。本来の虎口は北東端付近にあり、大きくコの字に窪んでいる。ここから北を回って東の段に続くルートが虎口で、側面には石垣が多数残されている。東下の曲輪は北西部に虎口があり、西側が櫓台であったようで基底部の石垣が虎口から張り出して築かれている。この東下の曲輪は北側面と南側面にも石垣を確認することができる。
山頂から松尾山のある西へ降ると広い曲輪がある。ここから南へ降ると小つぶら、西へ降るとイバノヲ・大タヲへと続く。大タヲ側へ降ると段曲輪があり、この辺りに石垣が無数に築かれている。
主郭から北の立花口登山道側へ降ると石積みの古井戸がある。
立花山城への登山ルートは多方面からある。一番わかりやすいのは北の立花口からの登山道で、立花道雪の墓のある梅岳寺の近くに登山者用の大きな駐車場(地図)が用意されている。
最寄り駅(直線距離)