築城年代は定かではないが、蒲池治久によって築かれたと云われる。 蒲池治久は蒲池城の支城として柳河城を築き、後に蒲池氏の本城となった。
天正9年(1581年)蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺されると龍造寺氏の支配下に置かれた。
天正15年豊臣秀吉による九州征伐の後に、立花宗茂が十三万二千石で柳河城に入ったが、関が原合戦で西軍に属し、敗戦後大坂を脱して帰国するとそのまま籠城して抵抗したが、黒田如水・加藤清正の説得に応じて開城した。 その結果宗茂は浪人となるが慶長8年(1603年)陸奥国棚倉城で一万石をもって大名に復帰した。
立花氏に変わって三河国岡崎城から田中吉政が三十二万石で入封、この田中氏によって柳河城は近世城郭として大改修され、天守が設けられた。 しかし田中氏は忠政に嫡子なく断絶となり、筑後国北部を有馬氏に、南部2郡は立花宗茂に与えられ以後明治に至る。
柳河城は現在の柳川中学校・柳川高校の辺りに築かれていた。 天守は明治になっても存続していたが、明治5年(1872年)1月18日に火災により焼失した。
本丸は柳川中学校で、東の柳川高校が二の丸、これを囲むように内堀と三の丸があった。遺構は柳川中学校と高校の間にある石垣で、ここに案内板が設置されている。中学校と高校の周囲を巡る道路沿いに北西、北東、南東、南西隅の標柱が建っている。絵図と比べると内堀の外側部分を示すと思われ、内堀は小さな水路として辛うじて残っているにすぎない。現在の地図と絵図面を参照すると、掘り割りはほぼ残っている。