築城年代は定かではないが津村秀保によって築かれたと云われる。 津村氏は藤原秀郷の嫡流栗木民部大輔秀政の子孫を称し、右京大夫秀保が九州へ下向して大友氏に属し、この津村城を築いて津村氏を称した事に始まるという。
天正6年(1578年)龍造寺隆信の筑後侵攻により落城、城主の津村大助秀門は討死し、子の秀千代は浮羽郡へ逃れたという。
慶長6年(1601年)関ヶ原合戦後に田中吉政が柳河に入封すると、榎津加賀右衛門が三千石を領して城代となったが、元和の一国一城令によって廃城となった。
津村城は八幡神社・宮若神社一帯に築かれていた。 八幡神社の辺りが二の丸と云われており、この辺りの水路は堀の名残であるという。 南側にある八幡神社の参道入口の道路を東へ100m程行った所に案内板が設置されている。