応永34年(1429年)小田常陸介直光によって築かれた小曲城がその前身である。 小田氏は常陸国小田城主であった小田氏の庶流という。
永享6年(1434年)横武頼房が少弐の勢力を回復するために挙兵したときには、小田貞光もこれに参戦して渋川満直と戦った。永享3年(1530年)大内の軍勢を田手畷で敗った少弐氏であったが、家臣の龍造寺家兼が勢力を伸ばすと天文5年(1530年)少弐資元は大内義隆の家臣陶興房に攻められ自刃して果てた。資元の子冬尚が頼ったのが蓮池城主の小田資光である。
少弐冬尚が再興すると小田政光はこれに仕え、天文14年(1545年)には水ヶ江城、天文20年(1551年)には村中城を攻めている。しかし、天文22年(1553年)小田政光が城番を務めていた村中城が龍造寺隆信よって奪われると政光の居城である蓮池城も攻められ、政光は龍造寺氏に降った。
永禄元年(1558年)小田政光は龍造寺隆信の要請によって少弐冬尚の家臣江上武種を攻め長者林で戦った。苦戦した政光は隆信に増援を求めたが隆信は援軍を送らず、政光は討死してしまった。政光戦死の報を聞いた隆信は小田氏の居城である蓮池城を急襲して攻め落とした。
蓮池城を脱して落ちていた政光の子小田鎮光・朝光・増光はその後帰参が許され龍造寺氏に従ったが、永禄11年(1568年)小田鎮光は梶峰城へ移され、龍造寺長信が多久から蓮池城に移った。長信の後は龍造寺家晴、鍋島信生(後の直茂)、江上家種の居城となった。
江上家種は龍造寺隆信の次男で鍋島直茂の嫡男勝茂を養子に迎えていた。 家種は文禄2年(1593年)文禄の役で渡海し釜山で討死しており、その後は鍋島氏が城主となった。この時代の蓮池城には天守が存在し、一つ目は天正18年(1590年)に名護屋城に移している。その後天守が再建され、元和の一国一城令により廃城となったときに佐賀城へ移されたと云われる。
承応3年(1654年)鍋島直澄が蓮池城跡地に蓮池陣屋を構え蓮池藩となった。蓮池藩は 寛永16年(1639年)佐賀藩初代鍋島勝茂の三男鍋島直澄が三万五千石余りを分与され、その後に五万二千六百二十五石の所領を分与されたもので、蓮池陣屋を構えるまでは佐賀城三ノ丸に居住していた。
蓮池城は現在の蓮池神社と蓮池公園一帯に築かれていた。 今この間を佐賀江川が一直線で流れているが、かつては大きく蛇行して流れていたようである。
蓮池城の遺構は余り残っていないが、蓮池公園には「男山」と呼ばれる築山があり、かつて南側に広がる練兵場の指揮所であった。蓮池神社の東側に公民館があり、ここに蓮池城の案内板が設置されている。