築城年代は定かではないが龍造寺氏によって築かれた村中城がその前身である。
龍造寺氏の出自は詳らかではないが藤原姓を称しており、一説には甘南備峰城主高木氏の次男南次郎李家が佐嘉郡龍造寺村に居住して龍造寺氏の祖となったという。
文明年間(1469年〜1487年)には龍造寺康家が村中城を嫡男胤家に譲り隠棲して水ヶ江城へ移り、これを継承した龍造寺家兼が分家として水ヶ江龍造寺氏となった。 この家兼の曾孫が龍造寺胤信(後の隆信)で、家兼の遺言により還俗して水ヶ江龍造寺家を継いだ。天文17年(1548年)惣領家である村中龍造寺胤栄が病で倒れると、胤信が村中龍造寺氏を継ぐこととなった。天文19年(1550年)には周防の大内義隆より隆の字を賜り龍造寺隆信となった。
天文20年(1551年)龍造寺家臣の土橋栄益は隆信を廃して龍造寺鑑兼を擁立しようと画策し、大友義鎮に通じて周辺豪族を参集し隆信の弟家信の居城となっていた水ヶ江城と村中城を包囲した。籠城側はわずかな兵しかいなかったため、攻め手の蓮池城主小田政光の家臣深町理忠の提案に従い、隆信は開城して筑後へ落ちていった。天文22年(1553年)筑後の蒲池氏の援助を得た隆信は挙兵して村中城の奪還に成功している。
永禄12年(1569年)大友宗麟は筑後国吉見岳城に本陣を置いて佐嘉へ侵攻。村々に火を放ちながら村中城を包囲したがこのときは和議となった。しかし、元亀元年(1570年)再び大軍を率いた大友軍が村中城に攻め寄せた。大友方は大友親貞を大将として村中城攻めに向かわせたが、龍造寺軍は大友の本陣を奇襲し、成松信勝が大将の大友親貞を討ちとって大友軍を撃退した(今山の戦い)。
「五州二島の太守」と呼ばれる程に勢力を拡大した龍造寺隆信は、天正6年(1578年)(一説に天正9年)家督を嫡男政家に譲り須古城に隠居したが、実権はなお握り続けた。天正12年(1584年)日野江の有馬晴信が離反すると、隆信は自ら大軍を率いて島原へ向かった。有馬氏を支援する島津義久は弟家久を大将して送り込み、沖田畷で戦ったが龍造寺隆信は島津の家臣川上忠堅に討ち取られてしまった。この戦いで龍造寺方は龍造寺四天王とも呼ばれた成松信勝、百武賢兼、江里口信常、円城寺信胤、木下昌直など数多くの重臣を失っている。
家政の時代になると次第に実権が鍋島直茂へと移り、豊臣秀吉による文禄の役では直茂が龍造寺軍を率いて渡海している。関ヶ原合戦では直茂の嫡男鍋島勝茂が西軍に属して伏見城や伊勢国安濃津城を攻めているが、その後西軍から離脱し、直茂が東軍に属していた小早川秀包の久留米城や立花宗茂の柳川城を攻略するなどの功によって所領は安堵された。
江戸時代に入ってからも龍造寺嫡流の家政と子の高房が存命であったが、慶長12年(1607年)に高房、家政と相次いで亡くなったことで鍋島家の基盤が固まった。 佐賀鍋島藩は直茂を藩祖とし、初代は勝茂で十一代直大まで続いて明治に至る。
佐賀城は現在の佐賀市の中心部に築かれた平城で、本丸が現在佐賀城公園となり本丸入口に鯱の門が現存し、内部には本丸御殿が復元されている。
佐賀城はその前身である村中城を拡張する形で築かれている。村中城の本丸があったのは現在の佐賀西高校一帯で、佐賀城を改修するときには龍造寺嫡流の政家と高房が健在であったため、南東側に新しく本丸と二の丸を拡張している。
現在でも東側を除く三方の水堀は現存しており、現在の城内町がそのまま城内であった。虎口は北、西、東に二箇所設けられており西虎口は桝形であった。南東隅の本丸・二の丸、県立博物館の辺りが三ノ丸、佐賀大附属中学校の辺りが西の丸となる。城内には龍造寺四分家の武雄・諫早・多久・須古の屋敷があり、御三家の一つ蓮池藩の政庁は三ノ丸、小城藩の政庁は西の丸に最初は設けられていた。
佐賀城本丸は北西に天守台があり小倉城天守に似た四層五階の天守が揚げられたが、享保11年(1726年)の火災により焼失し以後再建されることはなかった。近年再建された本丸御殿のうち、御座間・堪忍所が近くの公民館に移築されていたものを再移築したものである。
鍋島家の菩提寺は佐賀市本庄町にある高伝寺で、鍋島家の墓碑とともに龍造寺家の墓碑もある。鍋島家の墓碑は本庄館、龍造寺家の墓碑は水ヶ江城を参照。
鯱の門(現存 櫓門)
本丸御殿(復元 御殿)
佐賀城の北側に無料の駐車場がある。本丸御殿は入館料はなく寄付という形になっている。
最寄り駅(直線距離)