築城年代は定かではいが天文年間(1532年〜1555年)に平井氏によって築かれたと云われる。平井氏は少弐氏の一族で少弐資頼の二男盛氏の子経氏が平井氏を称したのが始まりとされる。その後、千葉氏の家臣となり有馬氏に備えてこの地へ配されたという。
有馬氏に備えて杵島の地にいた平井氏は、大永5年(1525年)平井経則は有馬氏に寝返り、以後有馬氏に従って千葉氏と戦った。天文年間(1532年〜1555年)に須古城を築いて居城とし、支城として男島城と杵島城を築き弟に守られた。
平井経治は永禄6年(1563年)から天正2年(1574年)までの間に、龍造寺隆信によって四度攻められ、天正2年(1574年)ついに落城し平井氏は滅亡した。
その後、須古城は龍造寺氏の属城となり、天正6年(1578年)(一説に天正9年)に龍造寺隆信が隠居すると須古城へ移り居城とした。しかし、天正12年(1584年)龍造寺隆信は有馬・島津連合軍との戦いで討死し、須古城は隆信の弟龍造寺信周の居城となり、須古鍋島家の祖となった。
須古城は須古小学校とその背後にある丘陵一帯に築かれている。 須古小学校背後の丘陵を高城と呼んで詰城とし、その周囲に水堀を巡らせた平山城であったという。現在小学校の東側に残るのが水堀の名残である。
丘陵部分には平段が点在し、山頂背後の岩場は「弾よけ岩」と呼ばれている。西側の山腹には石積が残されている。
須古城の東側に案内板が設置されている。丘陵には小学校の南側の道路の奥から遊歩道が付いており、山上に簡単に登ることができる。
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