築城年代は定かではないが橘薩摩渋江氏によって築かれたと云われる。
嘉禎3年(1237年)橘公業が伊予から肥前国長島荘に移ったのが橘薩摩家の始まりで、後に渋江氏を称した。橘公業が最初に館を構えたのが潮見神社中宮の辺りとされるが、潮見城が築かれた時期は明確ではない。南北朝時代の応安5年(1372年)の軍忠状に「潮見城警固」とあるのが史料における初見である。
渋江氏は戦国時代には武雄の後藤氏に属していたが、永禄年間(1558年〜1570年)に有馬義貞によって潮見城が落城している。天正年間(1573年〜1592年)に入ると後藤氏は龍造寺氏に降り、潮見城は龍造寺氏の支城として取り立てられ天正3年〜5年頃に改修されたという。
潮見城は潮見神社の西背後に聳える標高151.4mの山に築かれており、現在は主郭まで山道が整備されている。
潮見城は潮見トンネルの上にある南北二つの峰に掛けて築かれた山城で、北峰と南峰に大きく分けることができる。北峰と南峰の間には巨大な二重堀切があり、この堀切から続く竪堀のうち南の堀は東麓まで巨大な竪堀として落ちている。明らかに北からの侵攻を遮断する備えであり、その外側に位置する北峰の遺構は南峰の遺構とは分断された状況になっている。したがって、北峰の遺構はこの巨大な二重堀を築く前の遺構で、それを築いた後は利用されなかったのかもしれない。
北峰の遺構はやや分厚い土塁のついた南北二段の曲輪があり、北から西側面にかけて畝状竪堀、その下方に堀切を設けている。あくまで防御遺構が北側を向いており、南峰の遺構と共存する形であったのは明らかである。
南峰の遺構は北端の二重堀切から南に曲輪が連なっている。最高所は三角点のある部分であるが、主郭は堀切のすぐ南にある曲輪と思われる。この曲輪は中央に神社を祀った巨石の塚状の土壇があり、櫓台ともされるが、隅部ではなく中央に位置していることなどから城の祭壇遺構と思われる。周囲には土塁があり、一部には立石があるが、これが何を意味するのかわからなかった。
最高所の曲輪の北側に東西両側を土塁、その内側に石段を備える遺構があり、これが城郭遺構なのか後世のものなのか興味深い。この最高所の部分から東尾根に降りた所には曲輪があり、その側面に放射線状畝状竪堀群が長く伸びている。
潮見城の居館とされるのが、潮見神社中宮の先からある登山道のすぐ上側の段で、東面に石垣が残されている。
城主であった渋江家の菩提寺が近くの長泉寺で渋江家の墓がある。
潮見神社中宮に駐車可能。ここから上宮側に歩いて行くと登山道入口がある。
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