伝説によれば、524年に筑紫の国造磐井が大和朝廷に反抗し、肥前地区の拠点として築城したと伝えられる。
仁治元年(1240年)塚崎城主後藤直明の弟、後藤定明が中野村を分与され磐井砦を居城とした。中野後藤氏は代々続き八代清明のとき、鍋島直茂の家臣となったという。
磐井の砦は磐井八幡社の鎮座する比高30m程の独立丘陵に築かれている。 山頂は神社境内となっているが、切岸のようになっており、南から西側にかけて帯曲輪、腰曲輪が付いている。参道は西側から付いていたものと思われ、通路が残されているが、それを降った西尾根に堀跡らしき溝が残る。この堀状の溝は西尾根から北側へと巡るように掘られているが、通路の可能性もある。