築城年代は定かではないが元永年間(1180年〜1120年)に後藤氏によって築かれたと云われる。後藤氏は藤原北家利仁流で塚崎荘の地頭となり下向したと云われる。
後藤氏は大永7年(1527年)後藤純明のとき実弟である日鼓城主渋江公親を攻めて渋江領を接収し勢力を拡大した。
純明のあとに家督を継いだのが後藤貴明である。貴明は三城城主大村純前の実子であったが、有馬晴純の子純忠(純前が甥)を嗣子に迎えたことから後藤家に養子に出された。このことから貴明は大村家と有馬家を恨んで、平戸松浦氏などと結び度々戦った。
実子に恵まれなかった貴明は松浦隆信の子惟明を養子に迎えたが、天正2年(1574年)その処遇に不満を抱いた惟明が蜂起して内紛となり、後藤貴明は龍造寺の支援を受けてこれを鎮めた。
須古城の平井経治を滅ぼした龍造寺隆信は後藤氏とも度々争うこととなり、和睦と手切れを繰り返していたが、天正5年(1577)隆信の子家信を娘槌市の婿養子に迎えて家督を譲ることで和睦が成立し、実子晴明は龍造寺氏に養子に出され、貴明は芦原に隠居した。
天正14年(1586年)後藤家信の時に住吉城へ居城を移したが慶長4年(1599年)火災により焼失したことで再び塚崎城を修復して居城を移した。
後藤茂綱は一万九千石余を領し、後に佐賀鍋島家の親類同格となって鍋島姓となり、武雄鍋島氏となった。元和の一国一城令によって塚崎城は廃城となり、御館として武雄鍋島家の屋敷が江戸時代を通じて存続した。
塚崎城は御船山の北麓、現在の武雄高校の敷地を中心に築かれていた。
御船山の山麓の高所に本丸を置き、北に二ノ丸、三ノ丸、御屋敷を配していた。しかし、本丸は住宅地、二ノ丸、三ノ丸、御屋敷の辺りは武雄高校として造成され、遺構はわずかに石垣や竪堀が存在しているのみである。
本丸の一部は武雄高校の西側にある住宅地の一番上にある公園となり、そこに標柱がある。また石門と呼ばれる石垣造りの虎口が西の深遠寺の川沿いの北東に現存している。