永禄3年(1560年)永江平方によって築かれた。
永江氏は大友氏の家臣であったが、天正10年(1582年)には田尻氏の支城として田尻氏の一族田尻了哲を迎え龍造寺氏に対抗した。
天正9年(1581年)
柳河城主蒲池鎮漣は龍造寺隆信に猿楽の催しに誘われ、佐嘉に赴いた所を謀殺される。
田尻氏は蒲池と同族であったが、龍造寺氏に従い蒲池氏一族を滅亡に追いやった。
しかし天正10年(1582年)田尻氏は龍造寺氏に反旗を翻し、本城の
鷹尾城を中心に江浦城・
浜田城・
津留城・堀切城の各支城を固めた。
龍造寺氏は直ちに軍を発し攻め寄せたが落とせず、一部の兵をもって支城を攻略させたが失敗し一年余りの籠城の末、有馬氏が島津氏と組み肥前侵攻する気配があった為、和議を結び引き上げた。
天正15年豊臣秀吉による九州征伐によって三池郡は高橋直次の所領となり、江浦城には直次が入城、永江氏は高城主となり直次に従った。
慶長6年(1601年)
柳河城に田中吉政が入城するとその家臣田中主水正が城主となる。
元和の一国一城令により廃城となった。