築城年代は定かではないが天正13年(1585年)以降に村上武吉によって築かれたと云われる。
能島村上氏は能島城を拠点とした三島村上氏の一つであるが、天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐で小早川隆景に従わなかったことから、小早川隆景に攻められ能島城を明け渡した。その後、この竹原の地が与えられ築いたのが鎮海山城である。
天正15年(1587年)小早川隆景が筑前国名島へ転封となるとこれに従い、その後豊前国簑島、文禄元年(1592年)長門国大津郡と移り、慶長2年(1597年)には再び鎮海山城へ戻った。
慶長5年(1600年)関ヶ原合戦では水軍を率いて毛利氏の軍勢と伊予へ攻め入り、東軍に属していた加藤嘉明の居城である松前城を攻めたが、三津浜での戦いで敗れ、武吉の嫡男元吉が討死にした。翌慶長6年(1601年)防長二カ国に減封となった毛利氏に従い周防国屋代島へ移っている。
鎮海山城は道の駅「たけはら」の東に聳える標高90mの山頂に築かれており、現在は登山道が整備されている。
山頂部は少し削平され、中央に方形の土壇があり、周囲に石積が残る。2006年に訪れた際にはなかったが、現在は村上氏の幟が立っており、麓からでもみることができる。
天正13年という戦国末期の築城とされるが、遺構らしい遺構は殆ど無く、南北に伸びた尾根にも小さな段がわずかに確認できる程度である。
北側の登山道入口付近には村上元吉の墓があり、向かいにある長生寺には伊予国湯築城主で竹原へ移り住んだ河野通直の墓が残されている。この辺りは安芸の小京都と呼ばれ、竹原の古い街並みが残り、江戸時代の儒学者である頼山陽所縁の旧宅なども残されている。
登山道は北と南からあるが、南から登る道の方がわかりやすい。 南の登山口は竹原小学校側にあり、小学校南の道路入口に道標が出ている。(南の登山口)
下山で北側へ降りると村上元吉の墓を経由して降りることができる。道の駅「たけはら」に駐車して登れば効率が良い。
最寄り駅(直線距離)