築城年代は定かではない。 南北朝時代には既に存在しており合田弥四郎が城主であった。
天正13年(1585年)豊臣秀吉による四国征伐では、河野氏の部将栗上通宗・宗閑が城主であったが小早川隆景の攻撃によって開城した。
その後、粟野秀用が七万石で入封するが、豊臣秀次の事件に関係して領地を没収された。文禄4年(1595年)加藤嘉明が淡路国志知城より六万石に加増入封した。この加藤氏の時代に城は大改修されたと云われる。
関ヶ原合戦で東軍に参陣して留守になっていたところを、毛利氏が攻めたが決着がつかず関ヶ原合戦が東軍の勝利に終ったことで毛利勢は撤退した。 その功によって二十万石に加増された加藤嘉明は新たに松山城を築城し、松前城の石垣などは全て運ばれ廃城となった。
現在は住宅と工場が建ち並んでおり遺構はまったくない。 県道22号線に面して公園があり、少し小高くなった丘に石碑と案内板が設置されている。 焼失して復元された松山城筒井門は松前城の移築と云われる。
松前駅の北を東西に走る県道214号線を西へ進み、突き当たりを北へ、県道に沿って北上し東レ工場付近に至ると県道に松前城跡の看板が出ている。
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